大理段氏の帝系 (作中設定)
点蒼派の所在地・大理国を治める段氏皇室の系譜を、 段智秀の出自を説明する前置きとして 葉雲裳が語る内容の整理。 青城留学中のイベント 雲裳との相談 で雑談「松煙閣の若様」→「完全版で」を選ぶと、 雲裳が一時辰ほどかけて系図を描き上げ、建国の太祖から段智秀の政変まで十数代を一気に語る。 「一言で言うと」を選ぶと要約だけで終わり、この系図は見られない。
作中の大理国は史実の大理国 (937〜1254 年、現在の雲南省) をほぼそのままなぞっている。 廟号・諡号・退位の経緯・高氏の専横まで史実通りで、創作は段智秀に関わる部分と 点蒼派との結び付きに集中している。史実と異なる点は「史実との対応」列に記す。
⚠️警告
葉雲裳ルート (青城留学) の段智秀の素性に関するネタバレを含みます。
雲裳が語る帝系
「支系」は雲裳の語りに従う。建国者・段思平の直系を第一支系、その弟・段思良の系統を第二支系と呼び、 両支系の交代が百年以上続いたというのが語りの骨子。
| 代 | 廟号・諡号 | 名 | 雲裳の語り | 史実との対応 |
|---|---|---|---|---|
| 1 (第一支系) | 太祖 聖神帝 | 段思平 | 大理の建国皇帝。雲裳の絵では「随分と雑な顔立ち」で、趙活そっくりと言われる | 937 年即位。史実通り |
| 2 | 文経帝 | (名を記さず) | 大理の人は恐れて名を呼ばず「あの方」とだけ呼ぶ。酒池肉林の暗君で、在位一年で引きずり下ろされ、天龍寺に放り込まれて出家させられた | 段思英。在位 944〜945 年、叔父の段思良に廃されて出家。出家先は崇聖寺 (一説に無為寺)。「天龍寺」は金庸『天龍八部』が崇聖寺に与えた呼び名で、本作もそれに倣う |
| 3 (第二支系) | 聖慈文武帝 | 段思良 | 文経帝の叔父。帝位を継いで第二支系を開いた。第一支系を根絶やしにせず王侯に封じたため、二支系の交代闘争が終わらなくなった | 946〜951 年。史実通り |
| 4 | 広慈帝 | (段思良の子) | 以後の七代は賢君も暗君もいたが、丸百年の統治の間、第一支系を皆殺しにはしなかった | 段思聡。史実通り |
| 第二支系末 | 天明帝 | 段素興 | 酒池肉林で遊女を好み、天の怒りと人の恨みを買って廃位。雲裳の絵は「見るからに悪人」 | 1041〜1044 年、国人に廃される。史実通り |
| 第一支系復帰 | 孝徳帝 | 段思廉 | 太祖の曾孫・段智思の子。段素興を廃し、百年ぶりに政権を第一支系に戻した。在位二十一年で実子の段廉義に無理やり頭を丸められ、天龍寺に入れられた | 1044〜1075 年で在位は 31 年。退位の実質的な圧力は宰相・高智昇。廃帝を子の仕業とするのは作中の脚色 |
| — | — | 段廉義 | 「廉」は清廉の廉でなく廉価の廉、と趙活が評する (四師兄に似ているとも)。家臣に殺された | 1075〜1080 年。楊義貞に弑され、楊が自立 |
| — | — | (高氏の擁立) | 段廉義を殺した家臣は自ら帝位に就こうとしたが、「高」姓の別の家臣に殺された | 高智昇の子・高升泰が楊義貞を討つ |
| — | 上明帝 | 段寿輝 | 高氏が擁立。一年しか帝位に就かず出家させられた | 1080〜1081 年。史実通り |
| — | 保定帝 | 段正明 | 十数年在位したが、やはり高氏に追われて天龍寺に出家させられた | 1081〜1094 年 (13 年)。高升泰に廃され出家。史実通り |
| (高氏の簒奪) | — | (高氏) | 皇帝まで追い出した高氏がいっそ自ら簒奪して即位。三年で崩御し、臨終に政権を段氏へ返した | 高升泰。国号「大中」、1094〜1096 年。臨終に子の高泰明へ段氏還政を遺言。史実通り |
| 中宗 | — | 段正淳 | 保定帝の弟。高氏が退位後も宰相に居座るのを恐れ、自ら息子の段和誉に譲位して出家。行き先は天龍寺ではなく無為寺 (「兄も天龍寺にいるから気まずい」) | 1096〜1108 年。無為寺で出家、法号は修空大師。史実通り |
| 憲宗 | — | 段和誉 | 少年時代に点蒼派で武術を学び、家伝の内功を最高境地まで極めた。大理の君主でありながら当代の点蒼剣聖でもあり、剣を振るだけで無形の剣気を放ち一丈先の敵を傷つけたという。高氏の刺客と自ら戦って一対多数でも必ず勝ち、勝っても殺さず、忠義を称えて再戦を励まし、討ち死にした者は義士塚に名を刻んだ。点蒼派を見下ろす松煙閣を建てさせた。百歳近くまで生き、晩年に出家 | 段正厳 (段和誉)。1108〜1147 年、在位 39 年は大理最長。高氏の内訌で政局は不安定。金庸『天龍八部』の段誉のモデル。点蒼剣聖・松煙閣は創作 |
| 景宗 | — | 段正興 | 皇位を息子の段智興に譲って出家 | 1147〜1171 年。史実通り |
| 宣宗 | — | 段智興 | 仏教に帰依しつつも頭が回り、簡単には出家しなかった。国政を放り出して国庫を傾け、六十もの寺院を修築した | 1172〜1200 年。60 寺院を建立したことは史実に記録がある。金庸『射鵰英雄伝』の一灯大師のモデル |
松煙閣と段智秀
点蒼派の蔵経閣は裏山の古い「松雲閣」で、段智秀が預かる「松煙閣」は憲宗が建てさせた楼閣。 蒼山を一望できる最も眺めのよい高峰に建ち、同時に点蒼派を監視できる位置にある。 点蒼山と大理城は「城壁と警備がなければ散歩がてら皇宮に入れる」距離で、大理皇室にとって隣に住む武林の高手の集団は看過できない存在だった。
その後、憲宗に長年抑圧されていた高氏の権臣が第二支系の末裔——天明帝・段素興の七世孫で当時わずか五歳の段智秀——を担ぎ上げて政変を起こしたが、失敗に終わった。 先帝は父と同じく仏を崇めて殺生を避け、幼い段智秀の命を取らず、世子の位を廃し忠国公府の爵位継承権も剥奪して点蒼派へ流刑にした。人質として点蒼を懐柔する意味もあった。 松煙閣を預かる身分が「高くもあり低くもある」というのはこの経緯による。
「段素興の七世孫・段智秀」と、この政変は作中の創作。史実では段智興の後は子の段智廉 (1200〜1204 年)、段智祥 (1204〜1238 年) が継いでいる。
金庸作品との関係
作中の大理段氏は史実だけでなく金庸『天龍八部』も下敷きにしている。出典が確認できるものだけ挙げる。
- 「天龍寺」は史実の崇聖寺に『天龍八部』が与えた呼び名で、本作はそれに倣っている。
- 段智秀が使う枯栄神功上卷の名は、同作で段思平が創り天龍寺の枯栄大師が修める段氏の内功「枯栄禅功」に由来する。
- 憲宗・段和誉 (段正厳) は『天龍八部』の段誉の、宣宗・段智興は『射鵰英雄伝』の一灯大師のモデルになった史実人物。
段和誉の「無形の剣気」を同作の六脈神剣と結び付ける読みは自然だが、本作側にそれを示す記述はないため断定はしない。
関連ページ
- 段智秀 — 本人のページ。点蒼派を追われた後の顛末
- 段婉清 — 忠国公府の嫡女、段智秀の妹
- 点蒼派 — 点蒼剣聖の称号と大理皇室との関係
- 雲裳との相談 — この語りが発生するイベント。選択肢ごとの効果はこちら
- 開幕前史年表 — 政変の位置づけを他の前史と並べた年表