崆峒派 (こうとうは)
秦州の崆峒山に位置する崆峒派は、宋・金・西夏・吐蕃の各国接壌地帯に位置しており、朝代の移り変わりに伴う版図変化に幾度も従ってきた。そのため忠君愛国の心は特に淡薄である。また、異国の有能な人材を多く受け入れてきた。
かつて崆峒山には十数個の門派や幇会が林立し、それぞれが一角を占めて独自に運営されていた。数朝にわたる変化と統合を経て、ようやく飛天・奪魄・鉄拳・玄功の四門へと収斂された。各門は独自の掌門を持ち、中原の大派に対抗するため一致団結して「崆峒派」と称することになった。四門が推挙した一人が掌派人となる。
しかし今や先代掌派人は西方へ去り、崆峒派は群龍無首の状態にある。四門は互いに譲らず、対立は激化している。
崆峒山のあたりは、平涼地方と呼ばれる一帯にある。唐門を発った趙活は二千里の道のりを経て、秦州の崆峒派の地界に着く。崆峒派は嵩山派・全真教・峨嵋派・青城派・点蒼派とともに六大派(六大正派)の一つに数えられる。唐陞は崆峒を「中原六大派の一つ」と呼びつつ、この数え方には種々の争いがあると言う。第一に、秦州は古来兵家必争の地で、宋・金・西夏の間で何度も支配が移ったため、崆峒が中原の門派と言えるのかどうかも分からない。六大派のうち青城・峨嵋は蜀に、崆峒は北方に、点蒼は南方にある。
戦乱に追われて行き場のない者は、みな崆峒山に逃げ込んだ。唐陞は、崆峒には宋人のほか金人・西夏人、さらに吐蕃人までいると言う。虞小梅は、山人は江湖の者に限らず、菜農・猟師・床屋・役者など、身分の低いとされる稼業の者まで何でもいると言う。崆峒山は古来の宝地として中原・西夏・吐蕃の武学を広く受け入れてきたと飛天門の弟子は誇り、趙活も「崆峒は比較的排外的でなく、一芸があれば武芸が低くても飢え死にしないらしい」と聞いている。ただ同じ飛天門の弟子は、崆峒はもともと江湖の面倒事にあまり深入りしたがらない派だとも言う。
四門の弟子のほかに、武功を使えない一般の山民もおり、市井の暮らしがある。唐惟元は、武林大会の前に崆峒で起きた出来事として、奪魄門が反目して、鉄拳門の下にいる武功を使えない居民や庶民を人質に取ったこと、山の住民が飛天・奪魄の両門に長年の恨みを抱いていたこと、魏掌門が民衆を煽ったことを語る。山の景観については、青城派の弟子が崆峒山を見て「どうしてこんなに禿げ山なのか」と漏らす。名産としては、崆峒仙菇・枸杞・老酒・砂糖漬けが有名とされ、鉄拳門の断続膏や打撲薬は効き目があるという。崆峒の豆乳は塩味で、他の土地の豆乳とは違い、慣れない人には受け入れにくい。
宋・金・西夏が接する立場は難しい。魏菊は、崆峒は立場が難しいうえ、山中に宋・金・西夏、さらに吐蕃の人まで混在していて、いっそう足場を固めにくいと述べる。列伝は上官隼の考えとして、崆峒山は大宋の辺境にあって地理的には唐門よりも厄介であり、掌派人を討てば崆峒が派を挙げて金に降りかねないと記す。
崆峒四門
崆峒四門は各々に思惑を秘めている。四門は互いに監視し、牽制し合い、さらに悪質な事件も起きている。飛天門と奪魄門が最も対立している。
飛天門は軽功と剣法に長ける。奪魄門は奇門の兵器を得意とし、鉄拳門は外功、玄功門は内功を重視する。
四門は衣色でも見分けられる。飛天門は紅、奪魄門は藍(唐門の青とは別の正藍)、鉄拳門は緑、玄功門は黄の衣を着る。奪魄門の斥候は「刺侯」と呼ばれ、藍衣を着る。崆峒四門の兵器の鋳造法をすべて記した書(飛天の匕首・奪魄の鉄爪・鉄拳の錘・玄功の金糸の払子などを含む)は、本来は外に伝えないものとされる。
四門は不仲だが、外敵に対しては意外なほど団結する。村人も外来者には一致して反発し、鉄拳門の者は特に飛天門の威張りを快く思っていない。奪魄門の弟子は、四門と一派が互いに侵害しない盟約を結んでいると言い、これに背いたとして金烏上人の一派を責める。各門には長老がおり、黄佩華は、魏菊が動かずにいるのは、四門の長老が半雨屏に揃い、金烏が言い逃れできなくなる時機を待っているのだろうと推し量る。金烏上人の事変では、多くの長老が中立を名乗って傍観した。
山中法度(後述)に基づく四門の分担は、鉄拳門が護衛と民生、奪魄門が秩序の維持と水火の防止、玄功門が財務と用度で、掌派人の出行の儀仗や祭儀は飛天門が主宰する。虞小梅は、掌派人の服飾は飛天門が案を出し、玄功門が費用と材料を出し、鉄拳門が織る決まりだと説明する。趙活が掌派人になった経路では、掌派人の旨として「四門は等しく大きく、高低の別はない」と定められ、尊ばれるのは唯一の掌派夫人だけとされる。
鄒博は、青城派の段考を崆峒大試に倣って盛大に開き、各派の弟子に比武して交流させようとした。また「季試」という古い習俗があり、先代掌派人の没後は四門が離反して行われなくなっていたが、趙活が留学する年の六月の夏至に、掌派人大選の前哨戦として再開される。
飛天門
飛天門は崆峒の筆頭で、歴来の掌派人の大半はここから輩出されている。崆峒を代表する門派といっても過言ではなく、武林の諸事について相談を受けるのも飛天門である。また法統を継ぎ、方針を定め、三派の掌門と共同して事を決する。
飛天門は修仙を志し、専ら祭天祈福・符紙駆邪に携わっている。山人は皆、崆峒の風雨順調・五穀豊穣は飛天門の力による所だと信じている。掌門火龍仙君は法力が高く、額に第三の眼があり、三頭六臂を持ち、三昧真火を吐くと伝聞されている。座下の大弟子「道法将軍」丹霞子道長と高手金烏上人は共に掌派人の有力候補である。嫡伝女弟子虞小梅は現在の崆峒四姝の中で最も声望が高い。
飛天門の弟子は皆飛天腳という軽功を習う。これは高深な武学『仙鶴迷蹤拳』から簡略化されたものであり、飛天腳も「鶴樁」の基本功を記載している。また『火雲剣譜』というものもあり、夏侯蘭がかつて言及したことがある。鎮門絶学は『焚心火印』である。
夏侯蘭は飛天心法について、凡庸な受けで言えば、意識を身後に向け、前脚を虚して後脚を実にし、七分を吐いて三分を吸い、身法の霊動を保つと評している。つまり常に逃げたい軟弱者だということだ。
趙活が崆峒派に留学して飛天門を選べば、招待所の南面の陵光廂房に住むことになり、修練により軽功が増長する。山中では特に仙法を学ばず、むしろ吹き込むばかりである。
飛天門は崆峒山で最も地勢の高い一帯にあり、景色は絶佳だが、足を滑らせないよう魏菊が忠告する。鶴崖は飛天門の腹地で、飛天の弟子が練功する場所でもある。飛天門が崆峒の顔に挙げられたのは、先代の第一掌派夫人にゆかりがあって寵愛を受けたからで、才徳は衆を服させるに足りないと列伝は述べる。飛天門の雲霄楼は崆峒山で最も値の張る酒楼で、老料理人は自らを「御厨」と称して胸章を見せびらかし、客足は乏しい。
飛天の弟子が罪を犯しても、現行犯でなければ、たいてい奪魄門の審問には出したがらない。虞小梅によれば、その場合は点穴して衣を脱がせ、木に吊るして風雨にさらす「裸吊るし」を科す。虞小梅自身も、謀殺未遂のかどで裸吊るしの罰を受け、鶴崖が三日間封鎖されたことがある。崖から跳んで詫びる罰も飛天弟子にあり、生き延びれば不問に付される。丹霞子は、師の火龍仙君が事あるごとに崖から跳べと言うので、今は鉤縄を常に身に着けていると語る。鉄拳門の弟子は、飛天門から辟邪玉を買ったと言う。趙活が掌派人になった経路では、崆峒の者は江湖で趙活の名を誇り、とりわけ飛天門は大げさに、掌派人を「北斗玉衡星君」が衆生を救いに降りてきたのだと言いふらす。
飛天腳は飛天門の入門武功で、崆峒の市集の古本屋でもたまに見かける。飛天門の弟子によれば、金烏上人は掌門の命を受けて直接武功を伝授している。仙鶴迷蹤拳は飛天門の奥の手とされ、虞小梅は、年数を積むか功績を立てた弟子でなければ伝授されず、心法は飛天腳と同じだと言う。焚心火印は、もとは落ち着いて順を追って習練し、暑気を吸って臓腑を鍛える光明正大な内功だった。飛天・奪魄の抗争の中で、飛天門の前輩が火毒を服して熱力を無理に高める速成法を編み出し、この方法で習った弟子は十人のうち八、九人が早死にする。力を瞬間的に前借りする性質のため長期戦には向かず、飛天門でもこの武功を使える者はわずかである。
飛天門には、「飛天五傑」、「秋老虎」、「火狐狸」と呼ばれる胡離火、「飛天烈火神鷹」と名乗る許勝などの弟子がいる。奪魄門から飛天門へ転じた「暑吏」は、内功を使って自白を迫ることに最も長けていると唐惟元は言う。
火龍仙君は、実際に会うと常人と異なる容貌で、衣は火のように鮮やかな色をしており、名にたがわぬ人物だと列伝は述べる。魏菊は「飛ぶところは見たことがないけれど、火は噴くのよ」と言う。火龍仙君は金銭剣を携えて鬼を捕らえに山を下りることもある。二十年あまり前には、全真の丘道長・郝道長、青城の鄒掌門、そして趙逵とともに、道を論じる席に集まったと唐陞は語る。
趙活が掌派人になった経路では、火龍仙君は雷謙・勾魂叟との席で自分の秘密を明かす。半雨屏で掌派人に剣を執って魔を除くよう命じた声は実は自分だったと認め、若い頃は父に従って各地で芸を売り、雑劇を演じて、一人で多くの役を演じ分け声色を変えられたと語る。雷謙は「俺と勾魂……老姚は、お前の素性を幼い頃から知っていた。とっくにお前だと見当がついていた」と言い、本当に馬鹿でないなら当年丹霞子を追い出したりはしなかっただろうと火龍仙君を責める。
金烏上人の事変では、飛天門は掌門の火龍仙君を含め、約八割が金烏に従ったと黄佩華は言う。また、金烏の一派の六、七割は飛天門の者だと、飛天門の女弟子は言う。火龍仙君自身も、金烏の悪事が自分と全く無関係とは言えないと認めつつ、掌派人の決選前に本門の弟子を支持して何の罪があるのかと弁明する。
丹霞子は火龍仙君に師事して修仙し、功徳を積んで境界を突破するため山を下り、襄陽の戦場に身を投じた。宋の兵の間で人望があり「道法将軍」と呼ばれ、将軍という呼び名は名ばかりの肩書きだが、将兵は丹霞子の命令に従うと唐布衣は語る。雨乞いの法を行って金の拐子馬を討ったとも伝えられ、元嬰期に達したと聞く者もいる。図鑑によれば、丹霞子は風刀火剣を身につけて師に妬まれ、「大乗期に至るには功徳が要り、最も早く功徳を積む方法は戦場で国を救うことだ」と言われて宋金の戦場へ送られた。夏侯蘭も、火龍仙君が丹霞子を騙して従軍させたと述べる。一方で、「師に二言三言叱られたくらいで逃げ出したのか」と責める声もあり、丹霞子自身は、先代掌派人の死去にも戻らなかったことを不忠不孝だと悔いている。
丹霞子は片目を失っており、十年の間崆峒を離れていた。戦績はすべて戦場にあり、名声は各派の宗師に劣らない。趙活が掌派人になった経路では、魏菊が「行軍統帥では崆峒で道法将軍が第一」と言い、上官隼は、国のため民のための男で朝廷の側に立つ人物と評する。成名の武功は『風刀火剣』である。若い頃に弾箏湖に落ちて死なず、山川の霊気が集まった天然の霊丹「万年石乳」を服して功力が大きく伸びた。丹霞子は「風火義従」と呼ぶ崆峒の弟子を率い、敵が武林盟のときは鉄拳門を先頭に飛天・奪魄が続く魚鱗の陣、敵が錦香宮のときは飛天門が先頭で鉄拳門が翼となる鋒矢の陣を敷く。
金烏上人は崆峒に入る前、「九命豹子」の異名で悪名を轟かせた男で、殺しても死なず、老世代の江湖人は今も憤激して語る。先代掌派人にだけ降伏させられ、出家して崆峒の門下に庇護されて暮らした。世間は改心したと信じていたが、列伝は、金烏上人がもと千灯楼で五炷の香を焚く、楼主に次ぐ教頭だったと述べる。千面人魔でもある虞小梅は崆峒に潜り込む前にこの人物から殺人の技を仕込まれており、金烏上人は今も千灯楼の命に従い、崆峒に潜んでいたという。独自の兵器である烈陽錘は極楽教に由来する邪術で、陰毒の内力を頭に打ち込み、三打すれば言いなりの痴呆にしてしまう。烈陽錘に打たれると真気が体内に潜り込み、打たれた者は終日ぼんやりと夢うつつのようになる。
金烏上人は生身の人間の血肉で縫った皮衣を着ており、一定の期間ごとに閉関と称して人を殺して皮を剥ぎ、新しいものを作っていた。同門の者も含め、崆峒の者は誰も正体を見抜けなかった。鉄拳門の童大虫は、かつて死体の収容と納棺を生業としていた経験から、それが本物の人の肉だと断言する。金烏上人は、掌派人になって崆峒の秘宝と仙剣、そして梅蘭竹菊の四姝を手に入れるつもりだったと自ら語る。
虞小梅は、四掌門を除けば崆峒山で最も地位が高いと列伝は述べ、魏菊は、丹霞子と夏侯蘭を除けば、当代の弟子はみな小梅を手本にしていると言う。図鑑によれば、火龍仙君は虞氏の孤児を門下に取って「小梅」と改名させ、第一掌派夫人の座を狙って育てた。火龍仙君も小梅に、お前を養ったのは第一掌派夫人にして本門の根基を固めるためだと告げる。小梅の本当の身分は千灯楼の刺客で、本人の言では、崆峒に送り込まれた目的は、四門を離間させて崆峒の秘宝を奪うことだった。千灯楼の楼主は小梅を「歴代最弱の千面人魔」と評した(任務の遂行率が五割に満たないため)。のちの経路では「第四代千面人魔」とも呼ばれる。
火護法の顔疆は「山火」の異名を持ち、攻勢が火のようだと江湖で言われる。小梅に想いを寄せていたが、護法の身で掌派夫人を狙うと非難されるのを避けるため早く結婚した。妻の孔鵲は飛天門の紅衣を着る人で、夫の寵愛を得られず小梅を妬んでいたが、小梅が獄に入れられた後、金を使って手を回して面会に来たのはこの妻だけだった。江湖では、妻を娶って火護法を務めていなければ、顔疆も掌派人を争う一人になっていただろうと言われる。
奪魄門
奪魄門は本門で潜火・夜巡・緝凶を司り、責任は重大である。昼伏夜行のため、顔色は蒼白く見えることが多い。また武功の流派は中原各派と大きく異なるため、しばしば誤解されて非難されている。
奪魄の掌門は姓が「姚」で、本名は不明である(本人が本名は分からないと主張している)。奪魄門の武功は奇門突襲・刺殺を主とし、掌門が姓名を隠匿するのは珍しいことではない。しかし奪魄の幽蘭夏侯蘭は「江湖第一美人」と号され、蛇蠍のような心腸を持ち、心が冷酷で悪辣なことで名高い。
飛天門の金烏上人の独門兵器・烈陽錘は、奪魄門武学の克星である。掌門は精鋭を率いて山洞に籠もり、対抗策を苦心して研究していた。趙活が崆峒派に留学を始めた当初、既に半年以上がこの状態で続いていた。この期間、勾魂叟が掌門職務を代理している。
無影爪は奪魄門の弟子なら誰もが知る奇門武功である。現在は鉄拳門に打造させた帯鉄爪護腕を使って施展しているが、昔は素手で行っていた。「霜刀破竹指」の秘訣も、この書に併せて記載されている。
夏侯蘭は奪魄門について、凡庸な受けと言えど、真気を鼓舞して潜行し、呼気で掌を撃ち、勢いで人を駭かし、つまり虚張声勢の軟弱者だと評している。
趙活が崆峒派に留学して奪魄門を選べば、招待所の東面の孟章廂房に住むことになり、修練により暗器が増長する。運が良ければ奪魄森林で夏侯蘭に出会い、彼女を師とすることすら可能かもしれない。
奪魄門は崆峒の役人に当たる存在で、捕縛の令牌を携えて取り締まる。弟子たちも「崆峒の役人は我が奪魄門だ」と名乗る。山門や関所の守りも奪魄門の弟子が担い、江陵へ向かう出発の時期には、外へ派遣される者が山口に集まって検問を受けていた。夏侯蘭は、関で奪魄の弟子に自分の名を告げれば、たいてい通してもらえると言う。法器の招魂鈴は、鳴らすと鎮魂獄の鈴まで連なって共鳴し、同じ衣色の奪魄門人が駆けつける。独自の兵器には鉄爪のほか判官筆があり、玄功門とも因縁があると唐惟元は言う。入門功は『地聴大法』で、奪魄門人は潜行と探りに長ける。内功の深い者は伝音入密も使い、わずかな物音や振動も聞き取る。勾魂叟は特に地聴に長ける。
奪魄峰の鎮魂獄は、堅い岩盤を掘った山牢で、獄卒は奪魄門の弟子が務める。他門の者だけでなく、奪魄門自身の弟子も収監される。江湖の伝説では、ここで死んだ囚人は三魂七魄を法陣に捕らわれ、永遠に転生できないという。
夏侯蘭によれば、奪魄門の創派祖師は侠盗で、爪功はそのための技だった。現任の掌門は体面を気にして、弟子には修正した堂々たる版を伝えている。夏侯蘭は、唐門の武功と奪魄門の武功は方法こそ違えど同じ妙味があり、どちらも奇襲を旨とし、臨機応変の反応が勝負だと述べ、趙活も唐門の武功は奪魄門に最も近いと言う。ある場面では、奪魄門が取り調べの詫びを兼ねて趙活に「崆峒良民券」を贈る。崆峒山民でなければ使い道がなく、趙活は郁竹に渡す。これを使うと大鉄舗の私債の一部を崆峒の公債に付け替えられると列伝は述べる。
奪魄掌門の閉関については、別の語りもある。勾魂叟の視点で語る列伝は、奪魄掌門がかつて夏侯蘭に武力で嫡伝女弟子の座を譲らせようとして、逆に両腕を外され頭を踏みつけられ、崆峒の父老に顔向けできなくなって隠れ閉関したのだと記す。季試にも姿を見せず、勾魂叟を代理に出席させたという。
掌門の名は「姚不知名」とされ、唐惟元は素顔も名も聞いたことがなく、「姚掌門」と呼ぶだけだと言う。列伝によれば、勾魂叟は五、六年前に突然現れて長老を自称し、閉関中の掌門に代わって号令を出していた。疑う者が出ても、掌門が閉関中だと言って掌門令牌で退けたという。
崆峒終盤の経路では、この人物の正体が明かされる。趙活が掌派人になる経路で、勾魂叟は火龍仙君・雷謙との席で、「奪魄門に勾魂叟という長老はいない。自分こそが本物の奪魄掌門・姚不知名で、千灯楼の無相祖師に屍心蠱で操られ、手先にされていた。この頭は毒虫が脳に入った結果だ」と明かす。雷謙・火龍仙君の側が「姚不知名と我々二人しか知らないことを言ってみろ」と確かめると、勾魂叟は、本名は姚知命で、五十年あまり前に父が占い師に運命を占わせたところ三つの大難があると出たため、宿命から逃れようと改名して名を隠したと語る。本物の姚不知名は勾魂叟であり、奪魄掌門として表に出ていたのは易容した無相祖師である。鉄冠道人(実は無相祖師)も後に、自分が奪魄掌門に易容して手助けし、「九命豹」(金烏上人)を崆峒の掌派人に押し上げたと語る。列伝は、崆峒を降す陰謀は十五年にわたって練られていたと述べる。
勾魂叟の肩書きは経路によって変わる。崆峒終盤では、掌門(姚不知名)が出関したため代掌門を解任され、今は「ただの奪魄門長老」だと本人が言う。趙活が掌派人になった経路では、魏菊が「奪魄掌門の姚不知名は行方知れずで、奪魄掌門の職は勾魂長老が代わって預かり、任命を待っている」と述べ、四掌門が眉山に集まる場面では勾魂叟は「勾魂掌門」と呼ばれる。
荊紅は前任の奪魄門嫡伝女弟子で、掌門・姚不知名の大弟子でもあり、のちに奪魄門を捨てた。生まれながらに掌派夫人を畢生の志とし、第一掌派夫人の座を争う強敵として、前代の玄功門の女弟子呼延菊を警戒していた。ところが夏侯蘭が崆峒に来ると解任されて普通の奪魄門人に落とされ、のちに崆峒で起きた騒動で夏侯蘭に顔を引っかかれて逃亡し、西夏の手先・金烏の共犯者として戻ってきた。列伝は、荊紅が、夏侯蘭が旅から戻って神功を成した際に雪山心法で奪魄幽霊爪を運用したことから、奪魄門の内功心法は出がらしのかすだと考えるに至ったと述べる。本人は「私も夏侯蘭と同じく、お前たち奪魄門のかすは捨てた。今は奪魄門の追魂鞭を使い、西夏の密教の気功を修めている」と言う。
夏侯蘭はもと雪山派の弟子で、雪山派が滅んだ後に奪魄門へ連れて来られ、無理に改名させられて嫡伝女弟子にされた(図鑑は元の名を「夏侯梅」とする)。夏侯蘭の話では、雪山派の弟子が宿屋で崆峒の弟子と口論して殺し合いになり、報復が重なって雪山派が滅んだ。事の発端となった飛天門の者は、雪山での乱戦で死んだという。図鑑は夏侯蘭を当代の崆峒第一の高手とし、絶世の境地まであと一歩と記す。列伝は、崆峒でこれに対抗できるかもしれないのは丹霞子と魏菊だけだと書く。夏侯蘭は掌門の号令に従わず、「奪魄掌門も眼中にない」と言う。奪魄森林を一人で占拠しており、掌門でも手が出せず、奪魄門人も入るのを恐れる。崆峒の山民で初めて朝廷の手配書に載ったのは夏侯蘭で、郁竹が二人目である。江湖に出た当初は温柔で、武林第一の美人と讃えられたが、凶報に遭って性格が一変し、女魔頭「奪魄幽蘭」と呼ばれるようになった。崆峒派への遠慮と、普段は深く隠居していることから、非難を免れている。
金烏上人が護法四人を連れて唐門に乗り込んだ場面で、水護法の余麟は閉関中だったため瑞笙とは面識がなく、他の三護法は瑞笙と私交があったと列伝は述べる。趙活が掌派人になった経路では、孟仙謡は県主ではなくなって崆峒に身を寄せており、趙活に「勾魂叟のあの老いぼれにも諦めさせなさい。出家して生涯嫁がなくとも、奪魄の嫡伝女弟子には絶対にならない」と釘を刺す。
鉄拳門
鉄拳門の職務は雑多であり、鍛鉄・農務・醸造・塩漬け・狩猟・屠殺・民生器具から、女性の前では言いにくい営生まで、すべてを鉄拳門が担当している。他の三門が不要とした人間はみな此処へ押し込まれるため、雑人が特に多い。ここで打造される兵器は江湖の一絶であり、火炎山剣閣は百年前の鉄拳門の分家から独立したものだと言われている。
鉄拳掌門雷謙は江湖では名の知られない人物で、鉄工であり古道熱腸の人。雷大哥と呼ばれている。嫡伝女弟子「裂骨魔」郁竹は身体は小柄ながら力は非常に強く、硬貨を片手で折り曲げることができ、童年時代には同門の孟瞋という高手の拳をも潰している。
鉄拳門の人間は良し悪しまちまちで、順手牽羊する輩もいる。秘笈『鉄臂神拳』は既に江湖に流出してしまい、鉄拳門の人間すら使わなくなった。現在は石公遠という飛石幇主が成名の技として使っている。
趙活が崆峒派に留学して鉄拳門を選べば、招待所の西面の監兵廂房に住むことになり、修練により体力が増長する。その大部分の生活は鍛鉄に費やされる。
鉄拳門が雑務をすべて引き受けているのは、四門とも食糧と生活用品が要るなかで、人数の多い鉄拳門の所要量が大きく、他の三門が不満を持ったため、争いの末に鉄拳門が譲り、他の三門が嫌がる雑役を一手に引き受け、衣食も質素にしたからだと鉄拳門の弟子は言う。雷謙は「鉄拳門は崆峒で一番の落ちこぼれの門だ」と言い、鍛冶・足の手入れ・床屋・裁縫・耕作・升や秤を扱う仕事・油売り・使い走りなど、誰もやりたがらない仕事をすると述べる。雷謙は、自分は掌門だが武功はたいしたことがないと言う。金烏事変の際、黄佩華は「鉄拳門は大半が老人や弱者、女子供で、助力は限られる」と言う。列伝は、鉄拳門は日々民生に忙しく、暮らしを保てれば足りるとして闘争心を失っていると述べる。雷謙は、留学生には支給がなく、鉄拳門に名を置く者も自力で食えという方針で、金持ちの外来者は容赦なく搾れと門人に告げている。南宮世家の寄付金について抗議する経路では、鉄拳門は一瞬で激昂する。雷謙は、南宮世家が留学で出した寄付は鉄拳門には一文も届かず、玄功門が握っていると説明する。
鉄拳巷にはさまざまな人が住み、主な生業は鉄舗である。崆峒の人々が器物を特注するが、注文は明後年まで埋まっている。奪魄門の鉄爪や夏侯蘭の鋼骨傘もここで作られ、奪魄の弟子でも鉄拳門の匠人には命令できない。趙活は内心で、宋は金鉄を厳しく管制しているのに鉄拳門が農具と兵器を専門に売っていることを、法を犯して敵を利することにならないかと気にかける。鉄拳門の弟子が大金を稼いだら掌門に上納し、掌門が同門に分け与える決まりで、内規「富貴となっても互いに忘れまい」により、儲けた者は困窮した同門に分ける。郁竹は、稼ぎを上納した後に手元に残るのは多くて三割だと言う。製作物は鉄拳門の鉱石で作られ、成品は鉄拳門のものとされる。他人の折れた刃の修復は請けないのが同門の暗黙の了解で、過去に請けて言いがかりを付けられ破産した前輩がいたことに由来する。弟子は「客は広場で会え、何でも鉄拳巷に連れ込むな」と言い、鉄拳巷は無色広場から角を曲がればすぐの場所にある。
鉄拳門は貧しく、鎮門の秘笈もごろつきに盗まれて売られたと列伝は記す。鉄臂神拳が流出した経緯について雷謙は、不肖の弟子に書き写されて外に出、今では十人の緑林好漢のうち七、八人が修めているが、鉄拳門の弟子は苦しいのでほとんど修めたがらないと語る。鉄拳門には、掌門が筋肉と骨を鍛えるための霊薬「龍象豹力丹」があり、未来の掌派人に献上する宝薬もある。郁竹の怪力について、夏侯蘭は半分が生まれつき、半分が鉄拳門の秘薬によると言い、図鑑は、幼い頃に虞小梅に騙されて霊薬「鉄鱗黒蟒血」を飲んだ結果だとする。
鉄拳門の先代掌門は鄧夷(「鄧老爹」)で、のちに雷謙が継いだ。実父の博打の借金で崆峒に売られた郁竹(図鑑によれば身代は五貫)を、鄧夷が買い取って弟子にした。郁竹本人は、鄧夷は酔った勢いで買っておきながら後悔した、人買いに連れ去られるところを鄧夷が取り戻してくれなければ青楼に売られていたと語る。鄧夷は臨終に大鉄舗を郁竹に託したが、浪費の癖があったため、大鉄舗は千貫の借金を負っていた。雷謙が掌門を継いでからは、郁竹への管理は緩くなった。鉄拳門の弟子は、奪魄門の醜事の後、先代掌派人が兵解登仙すると、鄧掌門は一層荒れたと語る。かつて青楼は鉄拳門の九つの主な生業の一つだったが、魏菊が着任して全て禁じ、働いていた女性には別の生業を割り当てた。火炎山剣閣は現在、天下第一の鋳場で、名匠が集まる鍛冶の聖地とされる。ある経路では、閣主が手紙で郁竹を招く。剣閣の鋳剣の名匠は以前、崆峒を訪ねて郁竹に皮肉を言った。
崆峒終盤の経路では、鉄拳門の嫡伝女弟子が替わる。江陵戦の後、郁竹の実父が崆峒に押しかけて、鉄拳嫡伝女弟子の実父であり将来の掌派人の岳父だと威張り、金をせびった。雷謙は郁竹は江陵で戦死したと偽り、江陵にいる鉄拳護法の童大虫に手紙で「一人を殺す」ことを頼んで嘘を成り立たせ、郁竹を師門から追い出させた。大鉄舗の店の証文や蓄えは追って清算し、没収するとされる。童大虫は郁竹に、大鉄舗と中のものはすべて没収する、嫡伝女弟子は生きて掌派の人、死んで掌派の鬼であり、戻れば争い、負け、死ぬと告げ、これは鉄拳門の者の代弁で「約九割は本心だ」と述べる。今後、鉄拳嫡伝女弟子はもう郁竹とは呼ばれず、郁竹は自由だとも言う。崆峒は手放した者を他派が引き取ることも許さず、引き取れば災いを招くと、列伝は唐惟元の認識として述べる。雷謙は、代わりに実父が賭場に売った郁竹の妹の郁宝花を買い取り、強引に嫡伝女弟子にした。郁宝花は崆峒四姝に数えられるが最下位とされ、崆峒終盤では鎮魂獄に収監された姉を訪ねる。郁竹本人も「私はまだ掌派夫人ではないし、嫡伝女弟子ですらない」と語る。
趙活が掌派人になった経路では、雷謙も火龍仙君・勾魂叟との席で自分の秘密を明かす。半雨屏の洞頂に黒火薬を貼ったのは自分で、外敵を半雨屏ごと葬るつもりであり、神雷剣を外の者に渡す気はなかったと言う。
玄功門
玄功門は図書を司り、すべての典籍・収支・戸籍・家畜を掌管する。昼間は開放され、崆峒の弟子が書籍を借りに来ることができるが、ここで誰でも閲覧できる書物は、退屈で迂遠な文章ばかりである。
玄功門の地盤である玄功洞は一つの洞から別の洞へと続き、山を貫いて環状に連なっており、極めて珍しい。洞が深くなるほど、蔵書も貴重になる。資歴深く徳望厚い本派の先輩でなければ入洞できない。最後の洞は、掌派人自らが臨むか四掌門が揃わなければ開くことができない禁地である。
掌門魏菊は江湖に身を投じる前は臨安の才女であり、詩書礼楽すべてに精通している。読書人の間では「魏招弟」は耳に届くばかりに知られており、李清照が生き返ったようなもの。彼女と上官螢は同窓の友人であり、崆峒派に留学している間に再会する可能性がある。
玄功門は内功に秀でており、門中の弟子は皆鉄琵琶功を習練する。習練者は飛天門の「鶴樁」の功夫で片脚立樁し、脚で鉄琵琶を支え、奪魄門の「霜刀破竹指」の指力で琴弦を弾き、さらに鉄拳門で鍛えた体魄を必要とする。こうしてなお音を発することができず、月日を重ねて玄功が成るまで待たねばならない。門中の弟子が鉄琵琶で一曲奏でることができれば、やっと及第とされ、通常は七、八年要するか知れない。
趙活が崆峒派に留学して玄功門を選べば、招待所の北面の執明廂房に住むことになり、修練により拳掌が増長する。
鞠冬音は、掌門の魏菊は崆峒山で名前のあるものなら猫や犬まで把握していると語る。六畜と収支を管掌する者は、四門の帳簿を正式に閲覧できる。魏菊は先代掌派人の遺命に従って四門を取り仕切り、戸部度支司の手順で崆峒の資産を帳簿に起こした。玄功門司書の職権で、魏菊は他の三門の武功秘笈を借りて留学生に渡すこともできる。玄功の功夫は短期間では成らないため、半年の留学ではこの形で補う。留学中の趙活は玄功門の客として、衣食の面倒を見てもらえる。
玄功洞は玄功門の弟子の起居の場で、機密が特に重い要地のため、玄功弟子の同行がなければ嫡伝女弟子でも自由に歩けず、召しがなければ外の者は入れない。玄功の「地聴法」で足音から侵入者の行方を察知する。蔵書の開放には決まった時刻があり、洞中の道場では朝会が開かれ、朝の鍛錬の後に掌門の訓話がある。物語本も洞で借りて読める。窃盗を繰り返す子供について、魏菊は「教えずして殺すは虐」として奪魄門に取りなして洞に引き取り、写経をさせて礼義廉恥を学ばせたが、改心しなかった。山中には、玄功洞の蔵経洞に通じる天然の縦穴がある。
玄功洞は崆峒の先民が数朝数代、百千人の力を合わせて開鑿したもので、鉄拳門には鍛冶出身で「穿山鼠」と呼ばれた前輩がおり、山に穴を掘るのが得意で玄功門の洞府の開拓にも協力したと、丹霞子は伝聞として語る。洞の奥には「玄功秘境」と呼ばれる別天地があり、絶谷に通じて果樹と農地がある。魏菊は洞内の天光と雨水が入る場所にこっそり野菜を植えている。「忘塵石」を落とすと洞口が塞がれて外界と隔絶され、金烏上人の事変で戦況が悪化した経路では、魏菊は最後の手段として全員を玄功秘境に退かせ、忘塵石を落とす計画を立てる。
玄功門の弟子は朝に鍛錬を行い、洞中の道場に集まって掌門の訓話を受け、洞中で会食する。玄功門の食事は他の三門と違って油と肉が少なく淡泊で、香を焚き楽を奏でる。通犀蓮子湯は玄功門が養気清心に用いる飲み物で、消耗した気力を補う。留学中の男弟子は朝の鍛錬に加われない。魏菊は、適齢の女弟子の中に趙活を気に入る者がいれば、玄功洞に招いて見合いの席を設けようとする。現在の玄功門は掌門以下すべて女弟子だと趙活は言い、南宮浅は、玄功門は十中八九が女子で、三門の男子に嫁がせる前提だと言う。掌派人を争えるのは男弟子だけで、玄功門入門の場面で魏菊は、今の玄功門には掌派人を争える男弟子がいないと言い、趙活を迎える。金烏上人が唐門で騒ぎを起こした経路では、護法の鞠冬音が魏菊の言付けとして、玄功門を代表して掌派人を争うために崆峒へ来るよう趙活に伝える。
魏菊は耕陽読書斎の出で、臨安の詩会で名を成し、天子門生として状元に点じられたが、才ある女は罪とされ、権臣の怒りを買って功名を剥奪され、江湖に流されたと列伝は語る。史官は魏菊の名を記さず、魏菊自身も暗愚な世に詩は作らないと誓った。魏菊は「官界で失意し江湖に落ちた人」と述べられ、本人も、自分は臨安の貴女ではなく今は玄功掌門だと言う。図鑑によれば、先代掌派人が臨終の前に耕陽読書斎から招いた遠縁で、旧名を改めて「菊」とし、玄功掌門と嫡伝女弟子を兼ねた。図鑑は、魏菊が人と戦わないが武功は並外れて高いと聞こえ、山中で一門だけ強大な飛天の掌門・火龍仙君も彼女を警戒しているとも記す(伝聞として)。玄功弟子は、魏菊が若くして三門の掌門と対等にやり合っていると語る。唐惟元によれば、飛天と奪魄は水火の関係で、今代が無事なのは魏菊が裏表から牽制してきたためで、魏菊は玄功門を権力争いに出さず総管として振る舞い、飛天門を立てつつ、奪魄門に警備・潜火の要職を割り当てた。ある経路では、魏菊が辞任を申し出て掌門の座を護法の鞠冬音に譲ろうとしたが、民衆が慰留し、他の三掌門も敬畏して認めず、外遊するという形で収まった、と唐惟元は言う。
玄功門の風護法鞠冬音は、玄功洞で魏掌門に次ぐ地位にある熟練の高手で、鉄琵琶功を自力で修めている(後述)。崆峒終盤の玄功門には黄佩華が登場する。黄佩華は玄功門の前掌門の弟子で、位階は掌門・護法に次ぐ第一だが、本人は名ばかりのことだと言う。魏菊は玄功門下二百人を率いて後方の調度と軍謀を掌り、これは「執明司」と呼ばれる。ほかに玄籌隊(十二人)、飛天門の烈火隊(十二人)といった隊の名が出る。
崆峒山の地図
崆峒派に滞在しているときの自由行動で、行き先を選ぶ画面の背景になる崆峒山の全景。

2026年10月の大型アップデートで追加された 3 年目の崆峒の場面では、戦況を説明するときに「大崆峒山勢地形図」が表示される。地名は絵に描き込まれており、日本語化 MOD を入れても繁体字のまま表示される。

地図に書かれた地名は次のとおり。表記とよみは日本語化 MOD の訳とルビに従い、MOD に表記が見つからない地名は、原文の字を日本の字体に直した。
| 地名 | よみ | 原文 |
|---|---|---|
| 混元頂 | こんげんちょう | 混元頂 |
| 羊不爛山 | — | 羊不爛山 |
| 太和宮 | たいわきゅう | 太和宮 |
| 太陽掌 | — | 太陽掌 |
| 通天橋 | — | 通天橋 |
| 朝陽洞 | — | 朝陽洞 |
| 磨針観 | ましんかん | 磨針觀 |
| 挿香台 | そうこうだい | 插香台 |
| 棋盤嶺 | きばんれい | 棋盤嶺 |
| 奪魄森林 | だっぱくしんりん | 奪魄森林 |
| 黄龍泉 | おうりゅうせん | 黃龍泉 |
| 捨身崖 | — | 捨身崖 |
| 半雨屏 | はんうへい | 半雨屏 |
| 鑽羊洞 | さんようどう | 鑽羊洞 |
| 蝋燭峰 | ろうしょくほう | 蠟燭峰 |
| 朽木橋 | きゅうぼくきょう | 朽木橋 |
| 鎮魂獄 | ちんこんごく | 鎮魂獄 |
| 大象山 | — | 大象山 |
| 一線天 | いっせんてん | 一線天 |
| 薬王洞 | やくおうどう | 藥王洞 |
| 朝天門 | ちょうてんもん | 朝天門 |
| 修渡橋 | — | 修渡橋 |
| 小象山 | — | 小象山 |
| 八仙台 | はっせんだい | 八仙台 |
| 無色広場 | むしきひろば | 無色廣場 |
| 弾箏湖 | だんそうこ | 彈箏湖 |
| 玄功洞 | げんこうどう | 玄功洞 |
| 飛昇宮 | ひしょうきゅう | 飛升宮 |
| 問道宮 | — | 問道宮 |
地図は上が北である。地図に地名の無い場所のうち、飛天門の飛天殿は太和宮よりさらに北の混元頂にあり、鶴崖は飛天門の腹地にある。
名勝一遊
無色市集
無色市集、別名四象広場は、四門のいずれも干渉しない絶対中立地帯である。そうは言ってもここに定居する人間は鉄拳門が大半である。
生活に必要なものはここで見つけられる。金に困れば、日雇い仕事もできる。金を稼ぎたければ、賭場・擂台もあり、悪い習性に染まることを望む者たちには打ってつけの場所である。
唐惟元は時にここで商人活動を行い、運が良ければ出会うこともある。
死亡擂台
「お前のような弱虫決闘者に、わが崆峒が主催する死亡擂台大会に出る資格はない!!」
四象広場に位置し、この死亡擂台大賽の歴史は極めて古く、崆峒派よりも由緒が長いという。
伝説によれば、三国時代に羌族・烏孫・月氏、そして名高い西涼馬家軍が涼州で乱戦を繰り返していた。互いに譲らず対立していたが、後に馬家軍が袁尚に加盟して曹操と戦うため、外族の騒擾に対応する余裕がなくなった。そこで死亡擂台大賽を思いつき、勝者が王となり敗者は立ち去ると決めた。
崆峒山が統一される前は、中小門派が林立し、紛争が起きるたびに擂台を張った。今日、死亡擂台の伝統は継続し、報名の際に生死状に署名させ、勝つたびに賭場の総掛け金の一割が得られる。
半雨屏
崆峒派の集会所である。四門が重要事項を相談したり、祭祀や節慶を行う時はここへ集まる。掌派人選任の大典もここで挙行される。
此地は見事に天然の技を凌ぎ、山壁を穿って凹洞を造り、さらに山洞を掘削して通路とした。半雨屏の洞頂には、先代掌派人が使用していた仙剣が挿されており、修仙得道して大乘期に達した強者でなければ抜くことはできないと伝聞されている。
奪魄森林
崆峒山の田地はすべて鉄拳門の弟子が自耕自種し、自給自足している。
田地の脇には人人が敬遠する奪魄森林がある。入夜は立ち入りが禁止されており、不浄な者がいると伝えられている。しかし幽霊に絡まれる前に、夜間巡回する奪魄弟子に野菜泥棒と見做されて痛打される可能性が高い。
江湖第一美人夏侯蘭がここに隠居しており、生人は立ち入るべからず。
掌派人
仙人出世
以下は、唐陞が語る崆峒の伝説である。
山中に中小門派が林立していた時代、「崆峒派」はあくまで統称に過ぎず、崆峒山中のすべての門派を指していた。その後、飛天・奪魄・鉄拳・玄功四門が他の門派を併呑し四大門派となった。相約して決戦を行い、勝者が崆峒の至尊となった。
此時、崆峒初代掌派人が横空出世した。伝説によれば、彼は鶴に乗って東方から来たり、仙剣を持って天雷を号令し、山壁を霹靂で穿ったという。これが崆峒の奇景・半雨屏である。四掌門はこの仙人の神威凛凛たる様に、皆ひざまずいて臣服し、彼を掌派人と奉ることにした。その後、崆峒は風調雨順となり、紛争がなくなった。
掌派人が辞世する前に、仙剣を半雨屏の洞頂に刺し、鶴に乗って西へ去った。仙旨を残し、崆峒の毎代に必ず天選の人が降臨し、天命を受けて世に来たり、天上の仙人が泥塑して人の姿に造形し、下凡して遊歴するものであると予言した。
掌派人が在位する間、崆峒は必ず天祐を受けて、敵なしであるという。
神雷剣
半雨屏の洞頂に刺さった剣は「神雷剣」と呼ばれ、崆峒の鎮山神器である。魏菊は、承け継がれて百年、同じものは二つとない鎮山法宝だと述べる。丹霞子が金烏上人に敗れ、小梅を呼び覚ませなかった経路では、神雷剣が自ら鞘を離れ、画中仙が空中で奪うものの、趙活が受け取って雷霆を号令し、半雨屏が一瞬、昼のように照らされる。勾魂叟は、崆峒の弟子にとって半雨屏の神雷剣は虎符であり玉璽だと言う。留学の配属で飛天門を引くと、魏菊は、先代掌派人は空を飛べなかったが、この仙剣で飛剣を放って敵を傷つけられたと語る。崆峒の御剣術は、嵩山派の金剛神槍指と並んで江湖の伝説とされ、信じない者が多い。極楽教が蜂起した日には、崆峒の仙剣が鳴り続けて天下に警告した、という伝説もある。趙活が掌派人になるのを辞退しようとする経路では、魏菊が小竹に、神雷剣が外敵(金烏上人)の手に落ちて壊されていたなら、山中法度では筋を抜き皮を剥いでも足りない許されざる罪になっただろうと述べる。
創派の経緯
唐陞の伝説とは別に、崆峒の者は創派の経緯を次のように語っている。
瑞笙は、昔の崆峒山には宋人・西夏人・遼人・吐蕃人がいて、どの国の法律に従えばよいかも定まらず、各門各派が争って死傷者が絶えなかったと言う。最後に創派祖師が山中法度を立て、三人の掌門と力を合わせて他の中小門派を武力で滅ぼし、ようやく崆峒山を統一して今の崆峒派を創った。その後、祖師の息子が掌派人を継ぎ、三門の長女を妻に娶った。崆峒山では、この四家以外の者が勝手に大きな顔をすることは許されなくなったという。
玄功門の女弟子は、四姝が新掌派人に嫁ぐ習わしの説明の続きとして、同じ話を次のように語る。創派祖師は生霊が塗炭の苦しみを味わうのを見るに忍びず、他の三傑とともに四門を率いて力を合わせ、中小門派を併合して崆峒派を創った。祖師はさらに子に掌派人を継がせ、三傑の長女と婚姻を結ばせて同盟を固めた。これは崆峒山にはこの四門以外に正統はないと宣言したに等しいという。
武学の源流(南岳真経)
画中仙(実は第二代千面人魔)は、崆峒の武学の真の源流は、左聖南極南岳真人が伝えた『南岳真経』だと説明する。後世の人はその奥義を理解しきれず、それぞれが分かった部分を解釈して、飛天・奪魄・鉄拳・玄功の四つの法門に分かれた。飛天門は性急で苦修を嫌い、『一趾馭風』を『仙鶴迷蹤拳』に、さらに『飛天腳』へと簡略化してしまった。奪魄門は上下で互いを害し、弟子に技を隠して教えたため『鎮魂功』が失伝した。鉄拳門は七路の『傷拳』を保てなかった。最後まで伝わったのは、玄功門の習得も極めるのも難しい『鉄琵琶神通』だけで、今は崆峒秘宝として奉じられている。画中仙は他門の失伝や簡略化を人災と評するが、列伝は『一趾馭風』そのものが難解だったため失伝したとも述べる。『一趾馭風』は、勁を身から腿、足、足指へと通し、膝を曲げずに内力だけで滑るように疾走して全身の動きの兆しを隠せる、天下最上乗の軽功である。
画中仙によれば、この源流は火龍仙君さえ詳しく知らない秘事で、虞小梅は崆峒に潜伏していた間も聞いたことがなかったと驚く。画中仙はさらに、世に『四凶書』のような邪典がある以上、百邪を抑える正派の神功もあり、南岳真経はその一つだと言う。
掌派人の地位
掌派人は崆峒の領袖で、地位は他の五派の掌門および三大世家の家主と並ぶ。魏菊は、崆峒の中の掌門は他派から見るとやや名ばかりの肩書きのようなものだと言い、列伝も、鉄拳門の掌門など江湖全体で見ればせいぜい某派の長老程度だと述べる。列伝は、江湖での地位は唐門掌門の唐中翎が崆峒の掌派人と同格で、崆峒の四掌門はそれより一段低いと記す。嵩山方丈を除き、武林の頭領は「掌門」、全真は「掌教」と呼ばれ、「掌派」と呼ばれるのは崆峒至尊だけだと万里鵬程は述べる。掌派人は「崆峒山主」とも呼ばれる。次に就く掌派人は「第十一代掌派人」と称される。
列伝は、掌派人を和平の象徴であり、天命を受けて生まれた「崆峒の天子」のような存在とし、やめたいと言ってやめられるものではないと述べる。趙活が掌派人になった経路では、崆峒神剣を返上しても、掌派人の座から解放されない。丹霞子は、掌派人は役職にとどまらず、乱世の終わりを示す崆峒の最高の精神的象徴だと言い、魏菊は、掌派人が生きている限り、人々は崆峒の命運は尽きていないと信じて安心して暮らせると言う。四掌門の職責は掌派人の指示に従うことだと魏菊は述べ、玄功掌門の座は、掌派人の同意があれば辞せる。
先代掌派人が任期の途中で亡くなってから、大選は延期を重ね、空位は数年に及ぶ。奪魄門の弟子は、大選は三十年に一度の一大事で、先代が任期の途中で亡くなった以上、群龍無首ではいられない、「山が揺れ地が動いても、来年の大選は必ず行われる」と言う。趙活は、留学から唐門に戻った後の会話で、当代で最も呼び声が高い候補は、襄陽の戦場にいる飛天門の丹霞子と、金烏上人の二人だと言う。丹霞子が従軍中で戻らなければ飛天門の候補は金烏上人になるとされ、飛天門の弟子は、金烏が翌年に掌派人を継ぐと考えている。顔疆が飛天門の代表と認めるのは丹霞子だけで、鞠冬音は、金烏に対抗できるのは丹霞子だけだが、丹霞子は戦場に心があり、帰るかどうか分からないと言う。奪魄門は今回の大選に勝つ決意でいて、夏侯蘭が大選前に姿を見せないと、弟子たちは焦る。鉄拳門は、掌派人の座を争うのをすっかり諦めているようだと趙活は言う。
非常時には、掌派人の代行が立てられる。江陵が魔教に包囲された際には、四掌門の議定で飛天掌門の火龍仙君が一時的に掌派人を代行し、崆峒は戒厳に入った。四門の私闘は山中法度で厳罰とされ、掌火・掌書などの要職の者を除く弟子全員が半雨屏に集合し、記名弟子は各門の列に並んだ。奪魄掌門が閉関中のため、火龍仙君は、居合わせた勾魂叟の発言を掌門の意思として扱ってよいかを確かめる。
掌派人の座を争う決闘と就任の儀礼
掌派人の座を賭けた決闘は天命の争いであり、第三者の介入は許されず、勝者がすべてを得て敗者がすべてを失う。挑まれた側が応じなければ人心を失う。丹霞子と金烏上人の戦いでは、半雨屏で掌派人の座を賭けた決闘になる。顔疆は「掌派人の座を争う決闘は、昔から手段を選ばず、勝者のみを尊ぶ。詐術を使った者が勝つなら、それは天が、崆峒は詐術なしには将来がないと見たということだ」と言う。崆峒の弟子が掌派人選を傷つけると天罰が下るとされ、金烏上人との決戦では、護法たちは金烏に武を振るえない代わりに、趙活のために道を開いて命運を託した。
掌派人は身体に障害があってはならないとされる。孟仙謡は、趙活の容貌をからかって、崆峒の掌派人は名家の跡継ぎと同様に一派の顔で決して障害者であってはならないが、お前の顔は障害者と何が違うのかと言う。列伝は丹霞子の考えとして、天子や諸侯のように人の上に立つ者は民の手本として容姿が端正でなければならず、障害者は継げないと記し、丹霞子は金烏上人の足を斬って不具にすれば、金烏はその場で掌派人の資格を失うと考える。東西武林の戦に敗れた経路では、趙活は身体に障害を負わされており、虞小梅は、掌派人になれなくするためのこれが最小の代価だと言い、郁竹は、武林盟が安心して自分たちの命を許すにはせめてこうしなければならないと言われたと語る。
就任には「四門巡礼」の儀式が欠かせない。順路は、南門の鉄拳門の問道宮から入り、玄功門の朝天門を経て、奪魄門の磨針観に至り、最後に飛天門の混元頂に着く。道中で唱える歌は「我に登仙の志あり、道を宮の軒に問う。朝天三百叩して、ようやく雲路の前に及ぶ。恒心は苦を畏れず、鉄の杵も磨けば針となる。混元は一気を成し、白日に天へ飛昇す」で、登山の道であり登仙の途でもあるという。巡礼の後、半雨屏で冠を戴き、道名を取り、太和宮に入って正式に崆峒を継ぐ。太和宮は歴代掌派人の居所である。礼楽・祭祀・儀節は玄功門が主宰する。
掌派人選の行方
掌派人の座の行方は、経路によって分かれる。
崆峒終盤で、金烏上人が掌派人の座を賭けた決闘に応じる経路では、趙活が神雷剣を得た後、金烏は納得できず(列伝は金烏の内心を「たまたま剣を受けただけで、なぜお前なのか。留学してわずか半年だろう」と記す)、逃亡を図り、小梅と趙活が二人で金烏を半雨屏から蹴り落とし、金烏は死ぬ。別の経路では、神雷剣が趙活と金烏の間に降臨し、金烏の烈陽錘とぶつかって砕けた剣の破片で、趙活が金烏の喉を刺し貫く。この経路では、神雷剣が降臨した時点で崆峒の内戦は止み、金烏が敗れると千灯楼の刺客は煙のように消える。趙活は「第十一代掌派人」として迎えられる。魏菊は後に、趙活が掌派人を辞退すれば、その庇護を失った小梅は必ず死ぬと告げる。また、掌派が山を空ける場合は、俗務を四掌門に分担させ、魏菊が統括する案を出す。
趙活が掌派人にならない経路では、唐門の弟子が「崆峒派がついに新しい掌派人を決めた、それは金烏上人だ」と伝える。伝聞では、金烏は罪を認めつつ、崆峒を説き伏せて極楽教を認めさせ、これが崆峒の内戦を引き起こした。掌派人の婚礼の日には、鉄拳・玄功の嫡伝女弟子が一日のうちに相次いで失踪し、飛天の嫡伝女弟子の仕業ではと疑われるうちに、小梅(梅夫人)までが失踪する。夏侯蘭は奪魄掌門の号令に従わず、姿を消している。唐陞は、金烏が掌派人となった経路で「天選の人も、良い人とは限らない」と嘆く。別の経路では、崆峒の秘宝を得て功力を飛躍的に伸ばした金烏上人が、新婚の妻の梅夫人を連れて唐門を滅ぼしに来る。金烏が掌派人になった後、鉄拳門に身を寄せていた趙活が、気に入らないと金烏に一掌で殺される結末もある。金烏上人が唐門で討たれた経路では、掌派人は定まらないまま四門の内輪もめが激しくなり、崆峒は外に敵を作る余裕がない。
朝廷側の上官隼は、趙活はまだ巡礼も戴冠も済ませておらず真の崆峒掌派人とは言えない、趙活が死んでも崆峒には別の者が立ち、それは多分道法将軍の丹霞子だろうと宋悲に語る。釈明は、巡礼の前は天命が定まらないと聞くと言う。一方、巡礼と戴冠をしなくても崆峒が趙活を主と認め、金像を作らせて太和宮に祀る経路もある。
崆峒四姝
趙活が崆峒派に留学する翌年の春には、掌派人大典が挙行される。新掌派人は四門を率いる以外に、四門の嫡伝女弟子を妻にすることができる。虞小梅、夏侯蘭、郁竹、魏菊は皆、未来の掌派人のまだ嫁いでいない新妻である。最初に迎え入れられた者が第一掌派夫人となり、その師門もこれにより栄誉を受ける。第二、三、四位は平妻として娶られる。
掌派人は連任できず、また私欲で子に位を継がせることもできない。三十年の任期が満了すれば剣を返納して退位しなければならない。掌派人が男児を生めば、母親に従って自家の門派で修練する。女児を生めば、皆玄功門に入門させて養育し、下任掌門に育成する。掌派人が女児を生まなかった場合は、崆峒門中から最も傑出した年長女弟子を推選して掌門とする。
故に崆峒山上の最大の禁忌は何か。それは梅蘭竹菊の崆峒四姝に言い寄ることである!いかなる男子も崆峒四姝に関わりを持てば、双方に害をもたらす。将来新掌派人がこのことを知ることになれば、必ず恨みを抱くであろう。
崆峒四門の不和のため、前幾代の四姝の末路は非常に悲惨であった。以下は夏侯蘭が知る例である:(恐怖注意)
四姝の名は称号である。夏侯蘭は、崆峒に入った日に奪魄門の嫡伝女弟子に選ばれ、未来の掌派夫人候補として育てられ、元の名を奪われて「蘭」に改名させられたと語る。奪魄門には代々一人の「蘭」がおり、死亡・逃亡・病気・老いのとき、掌門が別の女弟子に改名させて替える。四姝の座は交代でき、金烏上人は虞小梅に「鉄拳門は新しい小竹に換えた。飛天門も新しい小梅に換えればいい」と脅す。小梅が唐門から崆峒へ送り返される経路では、武林大会で見る梅夫人は、趙活の知る小梅ではなく、同じ「小梅」という名の別の美人になる。魏菊は「小菊」の名が気に入っている。嫡伝女弟子は資格を自ら放棄して辞めることができ、辞めれば使命と義務から解放される。鉄拳門の翟老漢は、郁竹が自ら資格を放棄すれば、自分の十代前半の娘が代わりに嫡伝女弟子となり、将来は順当に掌派人の寝所に送れると企んだ。
四姝の婚嫁は、本人だけの事でなく師門の盛衰にかかわる、崆峒山で数百年続く習俗で、外の者が口を出すことは許されない。四門は掌派人を争う有望な弟子を育てるとともに、掌派人争いに敗れても師門が崆峒で生きていけるよう、後手として嫡伝女弟子も育て、厳しく監督する。玄功の弟子は、四姝はいずれ争うことになるので仲良くする必要はないと言う。歴代の四姝は第一掌派夫人の座を巡り、誣告・誘拐・顔を傷つける・背後から刺す・毒殺など、手段を選ばず争い、「姉妹と呼ぶが実は競い合う敵」だと列伝は述べるが、今は事情が違うとも言う。夏侯蘭は、掌派人が四姝を娶るのは四門の勢力の均衡を取るためだと言い、列伝は、四姝は幼い頃から将来の掌派夫人として育てられ、掌派人に嫁いで崆峒の局面を固めるのだと記す。この制度は崆峒の上下が心得ている暗黙の秘密で、玄功の弟子が朝の点呼の後で他派の者に説明する。崆峒の男たちは小梅を仙女のように見て、心の中で敬うだけで距離を置く。外の見方として、掌派が四人の妻を娶る習俗は武林の話の種だが、錦香宮の人には好ましく聞こえないと列伝は述べる。
嫡伝女弟子の終生は未来の掌派人に許されたものとされ、武を指導できるのは掌派人と四掌門だけである。「受ける寵愛が大きいほど、義務も大きい」と郁竹は言う。丹霞子は内心で、嫡伝女弟子は身も心も掌派人のものとされ、選ばれた時点で親縁を断たれ、崆峒に根を下ろすしかなくされるのだと考え、玄功の嫡伝女弟子だけは前任掌派人の親族が就く例外で、崆峒の歴史を見ても両親が健在な嫡伝女弟子は少ないと思う。飛天の嫡伝女弟子は身分上遠出できないと図鑑は記し、鉄拳門の護法が嫡伝女弟子に下山の通行証を届けに来たのだと郁竹が思い込む場面もある。四門は普段は仲が悪いが、四姝に近づく者に対しては共同で当たり、趙活と小梅が散歩した時には、三門の弟子が連携して襲い、奪魄の弟子が「崆峒迷蹤陣」と叫んだ。
第一掌派夫人の前評判は、列伝によれば虞小梅が唯一無二の人選で、最強の競争相手は玄功の嫡伝女弟子で掌門でもある魏菊である。夏侯蘭は嫡伝女弟子の座にいながら、争う気がないと描かれる。郁竹は、奪魄門の弟子らに四姝の末で数合わせと見られている。第一掌派夫人にあたる人物は経路によって異なる。魏菊が第一掌派夫人となり、玄功門を治め続ける経路と、小梅が第一掌派夫人として掌派人の服飾を最終決定する経路があり、丹霞子は掌派人の妻たちを「梅夫人」「竹夫人」「菊夫人」と呼んで拝謁する。第一掌派夫人は崆峒を動かす権勢を持ち、崆峒派は第一掌派夫人の号令に従う。丹霞子は、第一掌派夫人の肩書は玄功掌門より優先すると述べる。小梅が第一掌派夫人の経路では、趙活が就任してから最初の崆峒会議が荒唐無稽に終わり、小梅は会議から外されて第一掌派夫人が名ばかりになる。梅・竹・菊の三人は、失踪した夏侯蘭も含めて結義し、崆峒四姝は本当の姉妹になる。
先代之死
数年前、飛天門の丹霞子、奪魄門の第三香、鉄拳門の「白眉虎」孟瞋、玄功門の「丹青羅刹」閻羅生、四人は「崆峒四秀」と並称され、掌派人の位置を争う有望者だった。
ある日、唐布衣と他の二人が崆峒山に乱入し、第三香を暴行し、夏侯蘭を連れ去って江湖に行った。夏侯蘭が帰ってから、第三香は彼女が同行の男子と通じたと疑い、夏侯蘭は身の潔白を証明するため、二人は夫妻の盟約を結んだ。しかし第三香は旅行中に呼延菊と鴛鴦の盟を交わしていたことが、後に判明する。
後日、第三香と呼延菊が密会していたところを、虞小梅の計謀により、夏侯蘭と閻羅生に発見された。混乱の中、呼延菊は夏侯蘭を庇って閻羅生の判官筆を受け、香消玉殞した。第三香は閻羅生を殺した。
此事が掌派人を動かし、掌派人は四掌門を率いて駆けつけ、第三香と夏侯蘭を制して奪魄峰に投獄し、山中の法度に従い処死することに決した。しかし掌派人は一切の過失を引き受け、自身の徳が足りず、門派が分裂して対立が生じたと言い、遠親の魏菊を呼び、女児の代わりに玄功掌門に就任させた。その後、飛天門で散功し、兵解登仙した。
万里鵬程は先代掌派人を「崆峒派呼延掌門」と呼び、文字どおりの大侠と評する。温夫人も心の中で先代を「呼延掌派」と呼び、鉄拳門の弟子も「呼延掌派が兵解登仙した」と言う。万里鵬程は、先代は仙人のような風貌と気骨の人で、平涼を鎮守し、外族が跳梁できないようにした人物だと思い描く。唐中翎は、先代を正しく気高い人だが、悪習を廃止できなかったと評し、虞小梅は、先代は四門の旧習に不満を持っていたと述べる。夏侯蘭は、先代に弟子として教え導かれたと語る。先代の没後、崆峒は全派で三年の服喪に入り、その後、四夫人が相次いで世を去り、鉄拳の掌門も寿命で亡くなった。
夏侯蘭によれば、当初の崆峒四姝は蘭と菊の二人だけで、飛天門と鉄拳門はまだ嫡伝女弟子を選んでいなかった。前任の「小菊」は先代掌派人の一人娘の呼延菊である。夏侯蘭の無二の親友で、夏侯蘭は、彼女と先代掌派人がいなければ、日夜憎しみに浸されて面変わりしていただろうと言う。呼延菊と魏菊は遠縁の間柄で、容貌が七割ほど似ているが気質は違い、呼延菊は掌派人の娘であることを笠に着て気が強く、魏菊は温婉だという。呼延菊は前代の玄功門の嫡伝女弟子である。
崆峒四秀の第三香は雪山派の出身で、奪魄門に入り、次期掌派人に最も近いと目されていた。夏侯蘭の話では、雪山派が滅んだ後、第三香は夏侯蘭を迎えに来た。呼延菊は夏侯蘭の逃亡を止め、第三香に崆峒で学びながら近くで見守るよう勧めた。第三香は雪山と奪魄の長所を兼ね備え、夏侯蘭と呼延菊の縁で先代掌派人にも目をかけられ、武功が飛躍した。やがて丹霞子が従軍し、孟瞋は郁竹に掌骨を砕かれて武功を失い引退したため、第三香と競えるのは玄功門の閻羅生だけになった。閻羅生は、書画の中に武功の奥義があると言って修行を怠った。
夏侯蘭の話では、唐布衣ともう二人に崆峒から連れ出されて江湖を旅し、その途中で峨嵋派の解無塵が加わった。一行は力を合わせて、当時の自分たちでは敵わなかった極楽左使を倒した。夏侯蘭はこの旅を、重要な思い出になったと語る。
掌派人と四掌門に制圧された第三香と夏侯蘭は、鎮魂獄に収監され、日を改めて山中法度で処刑される予定だったと夏侯蘭は語る。
崆峒伝承
指で弦を弾けば、脈に響き、その声は長く衰えない。崆峒の秘宝とは鉄琵琶功である。更に正確には、崆峒歴代掌派一脈相伝の内力のことである。
玄功洞の禁地に蔵されるもの、実は空無一物である。新掌派人は四姝を連れて内へ入り、鉄拳護法に護衛されて、飛天の至陽と奪魄の至陰を玄功で調和させ、神通を成す。これが崆峒伝承の真相である。玄功門の鉄琵琶功習練者は功成時に掌門から面授玄機を受ける。
先代掌派人は魏菊を崆峒に召し、彼女を掌門代理に任命し、新掌派人が継任すれば伝功するのを待った。これが魏菊が武功に詳しくないのに、内力が宏大である理由である。
秘宝は道統・綱常維持の鍵であり、外に伝えてはならない。他郷に失えば、崆峒は滅びるのだ。秘宝は掌派人のみに伝授され、退任に至れば玄功嫡伝女弟子に交付され、玄功禁地に蔵される。新任掌派人が印信を掌握して初めて開くことができ、内に入って秘宝を取得し、己のものとするのである。
秘宝を狙って窺おうとする者は、両耳を突いて聾にし、両眼を突いて盲にし、手を出せないようにする。事情を知りながら漏らす者は、舌根を切り取り十指を断ち切り、言い触らされないようにする。我が派でない者がこれを手にすれば、四門は心を一つにし、どれほど遠くとも必ず誅殺し、三族まで滅ぼす。
列伝によれば、歴代の掌派人は解任の前に閉関して、鉄琵琶功を後継者に授ける。鉄琵琶功は、数十年の修練を経てようやく小成するほど習得が難しい。正統の鉄琵琶功の真気は今も魏菊の身に宿り、魏菊は手にした乾坤造化炉でこれを丁寧に養っていて、掌派人が決まれば、玄功洞の禁地に入って閉関し、引き継ぐ。鉄琵琶功の真気を兵刃に注げば、並の鉄は触れるだけで折れる。魏菊は鉄琵琶功の習得に十数年を要した。崆峒法典では、鉄琵琶功を完全に会得した者が秘聞を知ることを許される。魏菊は「功成は始まりにすぎず、鉄琵琶功の長所は積み重ねだ」と言い、秘宝は数百年伝わると述べる。夏侯蘭は、雪山派の心法は力を化して消すもの、玄功門のそれは蓄えるものだと対比する。
ただし、鉄琵琶功を身につけているのは正統を受け継ぐ者だけではない。玄功護法の鞠冬音は、数十年の修練で自力で修めた。正統の承伝ほど浩大渾厚ではないが、侮れない。崆峒終盤では、鞠冬音は敵の手に落ち、金烏上人の烈陽錘で脳を破壊されて痴呆となり、数十年かけた鉄琵琶功の内功を奪われて金烏上人の力に変えられ、その後に死亡する。魏菊の誘いを趙活が断る経路では、趙活は玄功護法と戦うことになり、指名手配の対象となって崆峒派が仇敵になる。金烏上人が唐門で騒ぎを起こした経路では、崆峒は非を認めて賠償と礼を尽くすと約束するが、趙活と崆峒の恩讐は別であり、武功が廃されず息がある限り、玄功門は追い続けるという。魏菊は、先掌派人の位牌に祈って趙活を玄功門に迎え、西へ向かって叩頭させて敬意を示し、崆峒山に戻ったら先掌派人に焼香するよう求める。
鉄琵琶功は吞天宝鑑の天敵であり、これが申屠龍が崆峒派を潰そうと苦心している理由だと列伝は述べる。申屠龍は小梅に、崆峒派を滅ぼすのでなければ、お前のような半端な者に、その名を継がせはしないと言う。趙活が崆峒の秘宝の機密を明かす経路では、秘宝が外へ流れたことが世間に知れ渡り、崆峒では逃げ出す者と権力を奪おうとする者が出る。魏菊は宝を守れなかったと責められ、洞の中で閉関して表に出なくなる。
四大護法
崆峒四門の佼佼者は掌派人と崆峒秘宝を守護する。護法職を担する者は掌派人職を競うことができないが、未成親の者は護法職務を他人に引き継ぎ、座を争うことができる。
現任四大護法は火護法「山火」顔疆、水護法「波幻銀魚」余麟、風護法「暖風」鞠冬音、地護法「鉄脊山君」童大虫である。
列伝は、四大護法は四門の中でも抜きん出た者で、金烏上人より強い者がいてもおかしくないと述べる。護法は就任時に祖師像の前で忠誠を誓う(虞小梅によれば、顔疆は人傑だが掌派人を争う胆識がなく、早くに護法となって大選と縁が切れた。飛天門では護法が掌門に次ぐ最高位だとも言う)。護法は護衛だけでなく、掌派候補を監督する職責を持つ。開山祖師の規矩で、監督対象の師長とは事前に相談できない(かばう疑いを避けるため)。金烏上人は唐門での騒動の後、四大護法に連名で告発され、奪魄門が使者を遣わして拘束する手はずだったという(金烏はその前に反乱を煽った)。護法は法統を奉じる立場で、状況によっては掌門の号令に従わなくてよい(余麟)。金烏上人が唐門で騒ぎを起こした際には、護法の余麟が「お前はまだ掌派人ではない」と言い、鞠冬音は「四掌門に奏上して、お前が掌派人を争えるか見ていろ」と言った。金烏の側も、玄功門の魏掌門に弾劾されれば掌派人の座に就くのに一苦労すると警戒していた。結末の一つ(趙活が掌派人となり武林盟と戦う経路)では、童大虫が「護法の職は掌派を護ること。掌派がいるところに我々もいる」と言い、護法たちが戦場へ駆けつける。掌派人の食事は飛天護法が先に毒味する決まりで、飛天護法が欠けているときは別の護法が代わりに味見する。
趙活が四大護法を順に破っていく経路では、余麟は趙活の刀を借りて金烏上人を除き、掌派人を争う相手を一人減らそうと企んで道を譲ったと列伝は述べる。雷謙は、未婚の童大虫に、地護法の職を譲って掌派人の座を争うよう勧める。鞠冬音の言動は魏菊の意向に沿っている。
趙活が掌派人になった経路(結末の一つ)では、黄佩華が「玄功門新任護法」として掌派人に拝謁する。結末の一つでは崆峒の護法が眉山で趙活のしんがりを務めて殉職し、別の結末では崆峒の護法が全員死亡している。
山中法度
崆峒山の中の揉め事は、官ではなく「山中法度」で処理される。官は崆峒山のことには関われないと郁竹は言う。山中法度は崆峒掌派が頒布したものだと奪魄門の弟子は述べる。条文に「応外律」があり、丹霞子が崆峒の弟子に応外律の第一条を唱えさせる場面がある。
刑罰は厳しい。奪魄門の弟子は、常習の窃盗(4回目)に山中法度に従って片腕を斬ろうとし、強盗は指一本を斬られて十日間投獄、再犯は掌を斬られて百日間投獄される。軽い罪は、保釈金を納めれば釈放される。門を裏切る罪では、鎮魂獄で7日間断水断食させた後、裸で吊るして禿鷹に食わせる処分があると郁竹は言う。結末の一つでは、趙活が「山中法度はすぐ人を殺し、裸で吊るして禿鷹に食わせる、恐ろしい」と恐れる。外来者は、殺人放火か掌派人への冒犯がない限り法度に拘束されず、数日の拘留か下山追放で済む。無色市集では、山中法度により、四門の弟子は人を集めて武力を行使できず、この規定は外来の客も保護する。ただし、違法行為で奪魄門に手配された者は除かれる。虞小梅は、自分を誘拐しようとした屋台の主が奪魄門に捕まり、法度に従って片脚を切られたと語る。
離反・間者・内乱などの罪は容赦なく厳罰に処され、「掌派を害する者は必ず殺す」とされる。魏菊は、あまりに厳しく時宜に合わない条文から改訂を始めた。
留学制度
他派の弟子が崆峒に留学する期間は半年で、翌春の掌派人選任大典と重ならないよう組まれている。留学は南宮世家の南宮老太爺の提唱で、南宮世家から多額の寄付があったと崆峒の弟子は言い、上官隼は、南宮老侠が千両の黄金を出して留学を援助したと言う。受け入れは、南宮老太爺の顔を立てて、飛天門の弟子の師匠(火龍仙君)が崆峒全体に代わって応じたものだと飛天門の弟子は言う。留学生は四象広場で、案内の飛天弟子に迎えられる。無色広場では、奪魄門の弟子は泥棒に、玄功門の弟子は持ち物に気をつけるよう言う。
留学生の所属先は抽籤で決まるが、魏菊が趙活に玄功門での見習いを直接勧める分岐もある。後の場面では、魏菊が自ら籤を引いたので趙活は玄功門に入ったのであり、さもなければ自門に入っていたかもしれないと、他の三門の者が妬む。雷謙は留学生の趙活を「半分は崆峒の弟子」と呼び、奪魄門の弟子は趙活を「半分は身内」と呼んで入門秘笈を渡す。唐中翎は、崆峒を選ぶ理由を「四門がそれぞれ専門を持ち、見習えば見聞が増す」と述べる。
南宮老太爺が世を去った後、留学の盛挙は失敗に等しくなったと列伝は述べる(趙活が小竹を連れて留学を言い出す経路)。趙活が掌派人になった経路では、南宮遠は当初、次男を点蒼へ留学させるつもりだったが、考えを改めて次男の南宮浅を再び崆峒へ留学させる。南宮世家が唐門・崆峒と運命を共にすることを示し、周辺の小者や派内の不服従者を牽制するためだと列伝は述べる。南宮浅の最初の留学は、崆峒の諸侠とは付き合わず、趙活と交友を結ぶ形で終わったと語られる。
虞小梅は、崆峒の峰は切り立っていて未踏の秘境が多いとして、探索と桟道の修築を名目に「崆峒探険隊」を結成した。隊員は趙活らを巻き込んで強引に結成され、活動として、玄功洞への縦穴の発見や、奪魄森林への探索が行われる。
他勢力との関係
唐門
唐陞によれば、崆峒と唐門は先代掌派人の時代も、互いに名を聞く程度で往来がなかった。唐惟元は、先代掌派人の頃の崆峒は名実ともに備わっていたが、今は乱れていると述べる。列伝は、唐門と崆峒の交情を「良いとも悪いとも言えず、普段は交流がない」とする。唐門が小梅を受け入れた経路では、崆峒は唐門に宣戦する。趙活が鉄琵琶功の内力を得ながら玄功門に入らないことが崆峒の大忌に触れ、崆峒が唐門に宣戦したと列伝が述べる経路もある(どちらも交戦状態になる)。物語の冒頭で唐中翎は、崆峒・点蒼など大派の高手から戦帖が次々と届き、唐門の元気が大きく損なわれたと語る。別の場面では、唐門は青城派・崆峒派と敵対状態に入る。崆峒との交戦状態は、のちに解除される。
金烏上人は崆峒の人馬を率いて眉山の唐門外堡で騒ぎを起こし、第一高手に挑むと宣言する。口実は、小梅と小竹が唐門にしばらく滞在したことである。崆峒終盤の経路では、のちに魏菊が趙活に礼を尽くし、雷謙も賛意を示して、山中が平穏に戻れば唐門と崆峒は友好の盟約を結べるだろうと列伝は述べるが、別の経路では「崆峒は唐門と結盟しない」とされる。崆峒の四掌門が連名で唐門に書状を送る場面もある。趙活が掌派人になった経路では、崆峒と唐門は兄弟の盟であり、ごく近しい間柄と語られ、両派は連名で、極楽教の者を匿った門派を告発し、のちに流言を流した者を指名手配する。趙活は、唐門と崆峒は武林盟の管轄外だと述べる。
錦香宮
錦香宮の宮人の行き先について、趙活が唐門が収容できなければ崆峒はと水を向けると、温夫人は、考えたことがないわけではない、趙活がいて、魏才女・道法将軍の補佐があるなら別だと答える。別の分岐では、信用ならないと断る。のち趙活は錦香宮の人々を受け入れると約束する。錦香宮が消滅した経路では、一部の人々が崆峒に移住して玄功門に入り、黄衣に着替える。結末の一つでは、崆峒が山門を開いて錦香宮の弟子を受け入れ、当初は独立した一門として、のち平和裏に玄功門の下に組み込まれる。
千灯楼・極楽教・西夏
崆峒の変の裏には、西夏の千灯楼がいる。千灯楼が崆峒に人を潜ませる目的は、崆峒の秘宝・鉄琵琶神通を奪うことだと虞小梅は語る(「崆峒伝承」参照)。金烏上人の烈陽錘は極楽教に由来する邪術である。結末の一つ(趙活が掌派人となり西武林が武林盟と戦う経路)では、魏菊は、西夏が金に道を借りて極楽教と呼応し、西蜀を取る陰謀を見抜き、丹霞子とともに崆峒の弟子を率いて、現地の官軍と合流して西夏軍を迎え撃った。官の駅逓で送った軍情は極楽教に握りつぶされ、飛天弟子が軽功で自ら中原に伝えたが、武林盟は崆峒の偽報と受け取った。崆峒は派を挙げて動き、丹霞子率いる半分は崆峒を拠点に官軍を支援し、護法が率いる半分は唐門へ救援に向かった。この阻止により極楽教主は蜀を急襲する好機を失い、朝廷と武林盟は迎撃の態勢を整えられたという。別の結末では、武林盟主と崆峒掌派が共倒れになり、西夏が金に道を借りて先に崆峒を滅ぼし、極楽教の手引きで関内に入る。唐陞は、泥教と六大派は水火の仲で、行き会えば見逃さないと言う。
武林盟・朝廷・金
魏菊は、趙活を武林盟主に押し上げるため、全真・嵩山・点蒼・崆峒の四派の圧力で武林大会を朝廷の掌握から外そうと策を立てていたが、全真と嵩山が競争から退き、各国の流民を広く受け入れていて争議の多い崆峒は発言しづらくなり、大会の間は沈黙を通した、と列伝は述べる。魏菊は、盟主は同盟の主にすぎず、掌派人より地位が高いとは限らないとも言う。結末の一つでは、趙活は旧怨を忘れず崆峒を挙げて大金に投じ、魏菊が諫めても聞かず、金の皇帝から国師に封じられる。別の結末では、武林盟主が何度訪ねても趙活が山門で断り、休養を理由に六大派の席を自ら辞して、武林盟の号令に従わない。憤懣を募らせた武林盟の古参の長老たちが崆峒に檄文を出して平涼への遠征を図り、盟主が辞任をもって脅して止める経路もある(止められない経路もある)。趙活が敗死した結末では、西武林盟は武林盟に併呑されるが、唐門と崆峒だけは例外とされる。結末後日譚では、雪山派は武林七大門派の一つとして、崆峒と肩を並べるとされる。
江陵の戦い
崆峒は江陵へ向けて大隊を出し、多数の弟子が山を下りた。魏菊も崆峒の大隊とともに江陵へ向かった。童大虫は、郁竹を探す南宮家の使用人に、鉄拳門の嫡伝女弟子は大隊と一緒に崆峒へ戻った、その娘は知らないととぼけた。崆峒派の援軍が江陵に到着すると、群侠の士気が上がる。
金烏事変
崆峒終盤では、金烏上人の一派が山で反乱を起こし、崆峒は内乱となる。金烏一派の主力は飛天門の者で、よく戦うが、門派の内戦としか考えず、兵站の観念に欠けていたと列伝は述べる。金烏一派は山頂から兵を発して、挿香台・野狐橋・磨針観を攻めた。挿香台を取られると玄功門は棋盤嶺と連絡が途絶え、野狐橋を取られると一線天の桟道が麻痺し、磨針観を取られると奪魄門が打撃を受けて上天梯の道が断たれる。挿香台は北にある、玄功門が飛天門を監視する見張りの拠点で、飛升宮は無色広場の南にあり、飛天門が鉄拳・玄功の二門を監視する拠点である。蝋燭峰は、玄功門の薬王洞への通路を断つ要所だと丹霞子は言う。
魏菊は後方を固め、金烏の一党を計略で足止めした。そこへ丹霞子が指揮に加わると、崆峒の正規軍は勢いづいて崆峒の絶頂まで攻め上り、金烏上人は崆峒神器の神雷剣に望みを託して、半雨屏へ逃げ込む。魏菊と丹霞子は、掌派人の座を賭けた一騎討ちを金烏に挑むことを狙っていた。郁竹は十年かけて一人で掘り続けた地下道から鎮魂獄に現れ、その場で捕まって獄に入れられた。小梅は金烏上人の暗殺未遂で、小竹は鎮魂獄の死囚を奪おうとした疑いで投獄されており、就任前なら同門の内輪もめで罪は死に至らないが、金烏が大選で掌派人に就けば、小梅は掌派暗殺の許されざる大罪でさらし首、小竹は生き埋めになる、と列伝は述べる。
金烏事変の後の崆峒について、列伝や登場人物は次のように述べる。金烏の変乱では飛天・奪魄の二門の損傷が最も大きく、魏菊の取りなしがなければ、崆峒は事変の初日に崩れて西夏の爪牙になっていただろうと言われる。南宮遠は、崆峒は内乱で元気を大きく損ない、周囲の中小門派が虎視眈々と狙っていると語る。魏菊は、趙活が一言で十年に及ぶ内闘を終わらせ、四門を帰服させたと述べる。
趙活が掌派人になって山を離れた経路では、魏菊が実権を握る。四掌門の合議という形をとりつつ、規約はほぼ魏菊一人が作り、暫定の統治機構「三府二司」を設けた。三府は人力と兵糧の調度、屋舎・宮観の修築を統括し、二司は工期の監督と、奪魄門に代わる善を賞し悪を罰する職務を担う。飛天・奪魄の損傷が大きいため、権限を鉄拳・玄功の二門が代理する形になるが、一方に権力が偏らないよう、四門の弟子が共に運営して四門の上に立つ、権限を分け合って共に治める形をとった。この仕組みには、四門から有能で信頼できる者を抜擢して各職に就け、四門の権力を暗に薄める狙いもあると列伝は述べる。ただし三府二司は当面の便宜的な動員であり、いずれ山中法度に戻して、四門が各自の職を担うとされる。魏菊はさらに、あまりに厳しい山中法度の改訂、無能な者の罷免(飛天・奪魄の長老を牽制)、鉄拳巷の取り壊し、公立の学び舎の拡充を行い、数か月で崆峒は実務的で団結した小国の趣を持つようになったと列伝は述べる。人々は玄功洞の外に集まって、魏菊を「女の諸葛孔明」「白面の清官」と讃えた。
秘笈
画廊
